「Nanaさん節」に込めた文章の美学

有り難いことに、ネットの海に漂う小船のような私のBlogに
時折メッセージをいただく。

よくいただくお言葉が、
「Nanaさん節が炸裂していましたね!」
「Nanaさんの世界観が好きです。」
「思わず笑ってしまいました。」

まがりなりにも「美」と「エレガンス」を看板に上げているBlogで
笑いを取っているとは、これで良いのだろうかと思わなくもないが。
お気に召していただければ幸いである。

本人は意識せずに綴っているだけなのだが、
Nanaさん節、とよく言われるので
一体「Nanaさん節」とは何ぞや?としばし考えてみた。

旧ブログを読み返してみると
日本人女性の歩きについて吼えていたり
80’s英国ロック愛を暑苦しく叫んでいたり

全体的に表現がストレートで
「ズバリ言うわよ」系であるし、
自分のドジなところやみっともないところも書いてしまう。

私はとても単純な脳の持ち主なので
回りくどい書き方が出来ず
自分に無い物を、○○でございます、と取り繕うことが出来ないのだ。
だから結果として全体に弾け気味になってしまう。

 

だがそんな私でも、実は文章にはこだわりがある。
Blogを綴る時は、どれだけ弾けて見えようと
悪意や何かを貶める内容にはしない。
Blogを感情を吐き出す場にしないこと。
それから、どんな時もユーモアと品があること。これは最低限必ず。
それが私の、文章に対するこだわりであり、美学である。

たとえ天下のルブタンを「変態靴」と名づけようとも
(この名称の反響は大きかった)
セルジュルタンス氏を「素敵に変態なムッシュ」と呼ぼうとも
それは悪意ではなく、愛を込めての表現なのだ。

と、ここまで綴りながら
愛を込めつつ、若干尖った表現をすること。
これが「Nanaさん流」かもしれないと思った。

 

文章には思っている以上に、その人が出る。
だからといって、自分を出すことを恐れては
借り物の、当たり障りの無い表現になってしまう。

私は、好かれる文章を書こうとは思わない。
私の文章を読んで、どう思われるかは読み手の自由だから。
全ての人に好かれる文章など、どだい無理なのだ。
むしろ私をストレートに出して、それでも付いてきてくださる方を大切にしたい。

もっと表現力、構成力を磨いて、私の思うことを伝えていきたいと思う。

 

 

マレーシア クアラルンプールより愛を込めて
Nana

 

 

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